ブログネーム 海 48歳(2020年現在)子供なし
「明るく・素直に・元気よく」
子供の頃から言われ続けてきたことだ。
勉強なんか出来なくてもこの3つが揃っていれば良いと言われて育った。
19歳で実家を出るときには門出の言葉として母からもらったのは
「返事千両、笑顔万両」
世の中に出てどんな困難が起こっても、常にきちんと「はい」という返事と笑顔を忘れずにいれば、世の中をうまく渡れると・・・
48になった今でも、心の中にずっとある。
たぶんこの言葉のおかげで世の中を上手く渡ってこられたのだと思う。
海はとにかく明るい。細かいことなど気にしない。
物事を深く考えることも苦手で、考えるより思ったらすぐに行動するタイプだ。
石橋があったなら叩かず、飛び越える。
上手く飛び越えられずに落ちることもしばしばだ。
明るく元気だけが取り柄の海に、1つだけ自慢できる才能がある。
それは「素敵な人に出会える」という才能だ。
これまでたくさんの素敵な人との出会いがあった。
たくさんの人に助けてもらった。
さすがの海でも「もうダメだ」と思ったことが今までの人生で数回ある。
そんな時でも、素敵な大好きな友人たちに助けてもらった。
この才能さえあれば、これからも怖いことなど何もない。
48歳 現在の海
5年前に大都会から引越しをしてきたのだ。
海が「農業を勉強したい」と夫の空を説得して、二人で日本人が経営している農場で働かせてもらうことになった。
しかし・・・
いろいろなことが起こり、1ヶ月半で仕事がなくなった。
現在は地元の大地主、6代続くアメリカ人が経営する大きな農場で働かせてもらっている。
水耕栽培の大きなグリーンハウス、何処に?どこまで?あるのか分からないほどスケールのデカい露地栽培。
そして日本では馴染みはないと思うが、芝も栽培して売っている。
これが一番の儲け頭らしい。
また2000万円以上かけて、新たな水耕栽培のグリーンハウスも建設予定だ。
海はとても待遇の良い環境で働かせてもらっている。
日本に帰るときは長期でも短期でもいつでも休みが取れ、帰ってきたらいつでも仕事に戻れる。
そんな職場に感謝いっぱいだ。
プライベートで最近始めたのはヨガ。
ヨガは昔からとても興味があったがなんとなく、セレブな女子がやるものという思い込みがあって敬遠していた。
畑の同僚がヨガのインストラクターもしていると聞いて、試しに彼女のクラスを体験させてもらった。
そしてハマってしまったのだ。
腹式呼吸・筋トレ・ストレッチ・バランス・瞑想、すべての要素が入っていて、リラクゼーション効果も高い。
自分の体に向き合って、毎回自分の体をスキャンしている感覚だ。
今では週に2回通っている。
集中をしてインストラクターの言っていることを聞かないと、自分だけ違う動きをしているので、最近、英語のリスニングが良くなってきている気がする。
ヨガは海が今、必要としていることが全て詰まっている。
何もない田舎町で、仕事とヨガのおかげでとても充実した毎日を送っている。
日本にいた頃の海
海はもともとは飲食業界にどっぷりと浸かっていた。
初めてのアルバイトが16歳の時に近所に出来た焼肉屋だった。
高校卒業後は調理師専門学校に行き、調理師免許を取った。
料理は好きだが手先が器用ではない海は、お金を頂く料理は作れないと調理師は諦めた。
専門学校卒業後は東京の大きなホテルにサービスを勉強するために就職した。
約2年働き、小さな頃からの夢だった大人になったら外国に住むという夢を叶えるためにホテルを辞めた。
初めての海外生活がアメリカだった。
21歳だった甘っちょろい海は大人にだまされ、半年間の違法滞在となってしまった。
「このままここにいても、未来はない」
海はすぐに日本に帰る準備をして、実家に戻った。
実家は北関東の田舎町だ。
まだ若い海は田舎に収まる気持ちは全くなかった。
またすぐに東京に戻り仕事探しだ。
知り合いの紹介で小さな会社に雇ってもらったが、今でいう社長のセクハラとパワハラが酷くて4ヶ月で辞めてしまった。
そして23歳で東京の西麻布でバーテンダーになった。
理由は簡単。東京港区で働きたかったのだ。
働き出して半年で突然店長が辞め、海が店長に抜擢された。
洋酒やカクテル、そして接客術を勉強した。
年配の癖の強いお客さんが多いこのバーで学んだ接客術は大きな収穫だった。
バーの近くのスーパーで毎日お店の仕入れをしていた海はまさかのヘッドハンティングにあった。
海が働いていたバーの近くに、今はもうないが、伝説と呼ばれるバーがあった。
そこの店長をやっていた人に「うちで働かないか?」と誘われたのだ。
その伝説の店は、超有名な芸能人やモデル、TVや雑誌の業界人たちの隠れ家的バーだった。
田舎っぺの海にとっては、夢の中にいるような感覚だった。
結果的にそのバーでは働かず、海を誘ってくれた店長と一緒に自分たちの小さな飲食店を始めた。
なぜ海を誘ってくれたのか聞いてみた。
答えは「東京のど真ん中の高級スーパーで毎日値切って買い物をしている姿を見て、面白い子だと思ったから」だった。
バーの従業員の賄いを作っていた海は、毎日500円という予算で仕入れをしなければならなかった。
毎日買い物に行って、スーパーのおじさんたちと仲良しになっていた海は、毎日値切って仕入れた材料で大学生アルバイトの男の子たちの賄いを作っていたのだ。
海はまた一つ「自分のお店を持つ」という夢を24歳で叶えてしまった。
人生の大きな決断
24歳で自分のお店を持った海は、毎日が楽しくて今思い返すと夢のような生活を送っていた。
お店は毎日常連さんで繁盛し、1年のうち梅雨の季節2ヶ月間はお店を閉めてヨーロッパに旅に出た。
その代わり10ヶ月は、1日13〜14時間、月曜から土曜日まで働いた。
この時、海たちの夢はスペインでお店をやることだった。
毎年のようにスペインに物件探しの旅に行っていた。
一緒にお店を始めたパートナーは仕事のパートナーとしては最高だったが、プライベートとしては問題が多かった。
才能豊かなパートナーから、たくさんの事を教えてもらった。
でも一緒に生活をするのは限界だった。
「一緒にお店を続けたいけど、これ以上一緒に生活をするのは無理。一人で生活をさせてください。」
答えは「一緒に暮らせないやつとは一緒に仕事はできない」だった。
海は思い切って10年間切り盛りしたお店を辞めることにした。
この決断は簡単ではなかった。
自分のお店は自分の子供のような存在だ。
10年間、大切に育ててきた。
24時間、365日お店のことばかり考えていた。
それを離れるなんて考えられない。
でも一緒に生活をしていくことは限界だった。
精神的におかしくなる一歩手前まで来ていた。
ちょうどこの頃に出会ったあるお医者さんに相談した。
「心療内科を紹介してください」
それくらい精神的にキツくなっていたのだ。
そのお医者さんは心療内科を紹介する代わりに、週に1日1時間という時間を取ってくれて、海の話を丁寧に聞いてくれた。
5週間目くらいに自分で結論を出せた。
彼と別れてお店も辞める。
34歳の海はこの決断が今までの人生で一番大きな決断だった。
2度目のアメリカ生活
すべてを失った海が帰れるところは実家しかなかった。
実家の母は心配をしてこんな提案をしてくれた。
「日本にいるとお店のことばかりを考えちゃうから、アメリカの友達のところにしばらく遊びにいったら?そしてこれからのことを考えてきたらいいんじゃない?」
海はすぐに友達に連絡をして、1ヶ月半の予定で遊びに行くことにした。
その友達は家族のような存在だ。
21歳で最初のアメリカ生活の時に出会って、姉妹のように親しくなっていた。
お互いの日本の実家にも遊びに行ったことがある。
「せっかく1ヶ月半もアメリカに居るなら、学校でも行ったら?昔やりたいことがあるって言ってなかったっけ?」
こんな提案をしてくれた。
海はすぐに学校を調べ、友達の家から通える語学学校に見学に行った。
何をするのにも英語ができなければ話にならない。
見学に行ったその日に、3週間のクラスを申し込んでしまった。
すぐにクラス分けをするためのテストをした。
海はめずらしい日本人だったようだ。
「あなたは本当に日本人?」
面接の時に先生に聞かれた。
普通の日本人は読み書きが出来るが会話が苦手らしい。
海は毎年のように海外に旅行に行っていたので、文法はめちゃくちゃでも自分の思いを伝えるコミュニケーション能力は高かった。
読み書き・文法は酷かったらしい・・・
「あまりにも読み書きとスピーキングの能力に差があるから、自分でクラスを選んでいいわよ」
と言われ、読み書きに合わせて、超ビギナークラスに入ることにした。
そのクラスは最高のメンバーが揃っていた。
トルコ人のやんちゃな男の子、人生経験豊富な韓国人のおじさん2人。
スペイン人とエルサルバドル人の男の子。
海はどちらかというと、女の子よりも男の子との方が気が合う。
女の子の興味があることに全く興味がないからだ。
会話が続かない。
ビギナークラスの英会話力は皆同じだ。
このクラスがあまりにも楽しかったので、もう一度、学生生活がしてみたくなった。
あんなに勉強が嫌いだった海が、勉強をしたいと思ってしまったのだ。
3週間のクラスを終えて日本に帰り、学生ビザを取得して2度目のアメリカ生活がスタートした。
2008年1月、海が35歳になる年だった。