16歳の時、近所にできた焼肉屋さんでアルバイトを始めた。
その頃は留学がしたいの一心で、母と「バイト代はすべて母に渡す」という条件でバイトを許してもらった。
母はアルバイトには反対で、姉には絶対にさせなかった。
「大人になったら嫌でも働かなくてはならないのだから、高校生の時にしかできないことをやりなさい」
運動部に入るのが当たり前の環境で育っていた。
中学からバレーボールを始め、高校でももちろんバレー部に入ったが、顧問の先生の考え方についていけず、先生に文句を言ってやめてしまった。
1年の時からレギュラーにしてもらっていたので、同級生からも先輩からも理解されなかった。
「1年からレギュラーだから生意気だ」
と思われていたのだと思う。
同じ1年でも球拾いしかさせてもらえない子、背が高くて1年の仕事をしなくてもレギュラーの座にいる子の待遇に不公平さを感じ、顧問の先生に思っていることを言ったら、
「俺のやり方についてこられない奴はやめろ!!」
と言われ、やめてしまったのだ。
中学、高校の時は反抗期で、理不尽な大人には徹底的に反抗していた。
どこから聞いたのか?バレー部をやめた次の日に、違う部活の先輩から誘いがあったが、どうしても留学をしたいという思いが強く、「稼いだお金はすべて母に渡す」を条件にバイトを許してもらった。
それが飲食業に足を踏み入れた最初だった。
飲食業は海にとても合っていたようで、高校生のうちからフロアのマネージャーのようなことを任され、レジの締めからパートのおばさんたちのスケジュール管理までしていた。
パートのおばさんたちからもとても可愛いがってもらっていた。
日曜日のお掃除担当のおばさんが子供の都合で急に来られない日などは、急に呼び出されてお掃除から入っていた。
家から歩いて3分、走れば1分くらいの距離だったので、オーナーも重宝だったと思う。
電車で高校に通っていたのだが、帰りはお店の人が駅まで車で迎えに来てくれた。
一度家に帰って、犬の散歩をしてからバイトに行った。
「早く仕事に来い。なんのために駅に迎えにいっていると思っているんだ!」
焼肉屋の前の道が好きだった愛犬のリキを散歩していると、おじさんから怒られた。
「バイトより、リキの散歩の方が大事なんだよ。終わったらすぐに行くよ」
と、ほぼ毎日のようにバイトをしていた。
お店の常連のお客さんからもとても可愛がってもらった。
ある料亭の料理長からは、「卒業したらうちで働け」とも言ってもらった。
夏に日焼けをして真っ黒だったので、フィリピンパブのオーナーにフィリピン人に間違われ、「あなた日本語が上手ね。うちで働かない?」とお誘いも受けた。
接客が得意だったのだ。
どうすればお客さんが喜んでくれるのか、最初から感覚的にわかっていた気がする。
24歳で念願の自分のお店を出すことができ、10年間切り盛りしていた。
ずっとホテル、レストランとサービス業しかしてこなかったのが、5年半前から農業をしている。
最初はかなり辛かったが、今は単調な流れ作業も楽しんでできるようになっている。
5年半前に「自分の畑で作った野菜で小さな飲食店をやりたい」という夢を叶えるために、この地に引っ越しをしてきたのだが、ぜんぜん農業の勉強はできていない。
水耕栽培のハウスの中で、流れ作業の一員になっているだけだ。
やっと露地栽培を学べるチャンスが来て、先週から外の露地栽培の担当に移動できた。
そしてファーマーズマーケットのお手伝いも始めた。
「海、お疲れ様、昨日はダブルセールスだったよ。どう?楽しめた?」
「もちろん、すごく楽しかったよ!!」
農場のオーナーから嬉しい声をかけてもらった。
「やっぱり接客は楽しいよ。ずっとサービス業をやってきたから、お客さんとの会話はたのしいね」
「うん、見ていてすぐにわかったよ。すごくイキイキと仕事していて、接客が本当に好きなんだね。しかもダブルセールスだったよ」
露地栽培のマネージャーのヘザーともこんな会話をした。
英語ができるできないはあまり関係がない。
笑顔でお客さんに挨拶をしているだけで楽しい!!
体からエネルギーが湧き出してくるのがわかる。
その日はいつもより長く仕事をして体は疲れていたが、あまりにも気分が良くて家でもいつもより長くキッチンに立っていた。
こういう気分のいい日に料理をするのは、とても楽しい。
農業の勉強をするのはこれからだ。
また近い将来、接客をしながら生計を立てられることを夢見ながら農業を楽しんでいくぞ!!
農場の中に新しく作っている、プロデューススタンド(小さなお店)の担当も週に1回できそうだ。
引越しをしてきて6年目に突入して、やっと仕事が本格的に楽しくなってきた!!