大切な人との別れ 『ビジネス編』

東京で飲食店をオープンしたのは1997年8月。

海、24歳。

23歳でNさんと出会い、スペインのイビサ島でお店をやろうと準備をしていたが、叶わなかった。

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2人とも仕事を辞めてしまったので、スペインでお店を開く前に東京でやろうということになった。

1ヶ月半ほど都内を歩き回り、物件探しをした。

なかなか良い物件が見つからず、Nさんにとっての庭である新宿に戻ってきた。

家族でやっているとても感じの良い不動産屋さんで、何件か物件を見せてもらった。

そしてたわいのない話をしていたら、なんとその不動産屋の社長とNさんの叔母さんが知り合いだった。

そのご縁で、一般には出てない物件を紹介してもらった。

その物件のオーナーは「とにかく良い人を」ということだったらしい。

その物件のオーナーとNさんは同じ年だった。

そしてNさんの知り合いの設計+内装デザイナーもたまたまこの物件のすぐ近くで仕事をしていて、すぐに見に来てくれた。

「面白い物件かもね」

15坪の小さな空間だが、二人で営業するにはちょうど良い大きさだ。

設計者屋さんより先に、Nさんは自分のイメージを紙に書き渡した。

「こんな感じでよろしく、お金はあまりないからね」

すると設計屋さんは、「俺の仕事はないじゃん」と言いながらも、なるべくお金をかけないように、設計してくれた。

本来ならば、大工さん、左官屋さんなどに入ってもらって作業をするのだが、お金がないので大工さんが左官業までやってくれることになった。

毎日のように現場に差し入れに行き、大工さんの仕事を手伝ったりしながら、お店の出来上がりを楽しみにした。

出来上がったお店の床は少し凸凹で、テーブルや椅子の高さを調整するのが大変だったがこれもご愛嬌だ。

 

お店をオープンさせる前に、友人、知人を集めてパーティーを開いた。

酒屋さんからたくさんのお酒を提供してもらい、これからどんなお店をやっていくかを見てもらうために、サンプル料理をたくさん振る舞った。

ここでたくさんの大人たちの立ち振る舞いを見て、勉強した。

簡単な立食パーティーに関わらず、丁寧にご祝儀を持ってきてくれた人。

タダ酒が飲めると聞いて、好き放題飲み食いしていった人。

家族や友達を連れて、宣伝してくれた人。

手作りの差し入れを持ってきてくれた人。

準備や後片付けを手伝ってくれた人。

パーティーに参加した時の行動で、本当に応援してくれる人かそうではない人かがすぐにわかった。

ご祝儀を持ってきてくれた人のほとんどは、応援したい気持ちはあるがなかなかお店に来れない事情があるので、運転資金を応援してくれるひとだった。

タダ酒を飲みに来た人は、その後お客さんとして来ることはなく、縁は切れた。

その他の人たちは、いろいろな形で長い間ずっと応援をしてくれた。

 

Nさんは料理を勉強したこともなければ、ずっと飲食店に携わっていた人でもない。

ひょんなことからお店の立ち上げを頼まれ、そこが成功したことがきっかけで数店舗の立ち上げや再建をした。

メニュー作りや料理のセンスはピカイチだった。

人気のあるレストランで美味しいものを食べると、それよりもさらに美味しく再現してしまう。

そして、食材の組み合わせのセンスも凄かった。

普通では考えつかないような組み合わせや、料理方法でなんでも美味しく作ってしまうのだ。

インテリアなどのセンスもあり、テーブルや椅子など値段は安いがお店の雰囲気にマッチするようなものを揃えた。

ある有名なスタイリストの人が食べに来てくれた時に言ってくれた言葉が忘れられない。

「このお店はお金はかかっていないけど、センスが良いわね」

すべてがNさんの高いセンスで作られたお店だった。

 

お店のコンセプトは「自分たちが毎日通いたくなるお店」

毎日通うには安さが一番。

毎日新しいメニューがあって飽きない。

美味しいお酒とつまみが揃っている。

大好きな音楽が流れている。

 

40種類くらいのメニューを毎日手書きで書いていた。

もちろん中には定番のメニューもあったが、Nさんが毎日買い物に行き、その時の食材で毎日メニューを変えていた。

週に一度、築地にも買い出しに行っていた。

たった20席のお店はほぼ常連さんで埋まった。

一見さんはあまり入れなかった。

席が空いていても、常連さんがいつ来ても座れるように、一見さんはお断りしていた。

もちろん全く一見さんを入れなかったわけではない。

だいたいお店に入ってきた佇まいで、お店に合うお客さんか、合わないお客さんかがわかったので、フィーリングが合いそうな一見さんはお通しした。

ほぼ90%以上の確率でその一見さんは常連さんとなってくれた。

そうやって、常連さんが仕事仲間や友人たちを連れてきてくれたおかげと口コミでビジネスは大成功だった。

ちょっと自慢になってしまうが、たくさんの食関係の雑誌や女性誌から取材のオファーやTV番組の取材のオファーがあったがすべてお断りした。

毎日常連さんでいっぱいになるので、雑誌やTVに出ることで一見のお客さんが増えることを避けたかったのだ。

それでもある料理評論家の人がフラッと食べに来て、そして勝手に「自分の行きつけの店」というコラムに載せたことがあった。

そして後日、その雑誌が送られてきた。

その料理評論家はそれ以後、出入り禁止にした。

SNSがあたりまえの今の世の中では考えられないような、営業スタイルだった。

今だったら、ボロクソに叩かれていただろう。

 

お店が上手くいっていても、スペインでお店をすることを諦めてはいなかった。

毎年6、7月の梅雨の時期に2ヶ月間お店を閉めて、ヨーロッパに旅に行っていた。

最初はスペインに絞っていたが、ヨーロッパの海岸沿いにお店を持とうと、フランス、イタリア、ポルトガルマルタ共和国にも足を運んだ。

もちろんスペインにも何度も行った。

そして各国で食べた美味しいものを再現して、お店のメニューに載せた。

最初のころは2ヶ月間も休むことにブーイングだった常連さんたちも、帰ってきてから今まで食べたことのない美味しいメニューが増えるので、楽しみに待っていてくれた。

 

1997年8月から2007年8月までの10年間、毎日が楽しくて仕方がなかった。

どんなに具合が悪くても、営業時間になると治ってしまう。

最後のお客さんが帰ってから救急病院に運ばれたこともある。

Nさんと大喧嘩をして家出をして、お店をすっぽかしたこともある。

でも10年間は本当に楽しくて幸せだった。

今ではもう「あれは夢だったんじゃないか?」と思うほどである。

Nさんが亡くなった今、思い出すことは良いことばかりである。

24歳から34歳まで、凄い体験をたくさんさせてもらった。

 

今でもそのお店は形を変えて存在している。

常連だった友人が定番メニューの味を引き継いで、今でも営業をしている。

日本に帰ると顔を出す。

とても嬉しいが、複雑な気持ちも湧いてくる。

自分たちで作り上げた大切なものが、人のものになってしまったような気がするからだ。

でも大切に残してくれている友人にとても感謝をしている。

Nさんにも感謝しかない。