大切な人との別れ 『出会い編』

これまでの48年間の人生の中で、とても影響を受けた人が亡くなってちょうど一年になる。

その人は、海の良さを思いっきり引き出してくれ、そして普通の人が体験できないようなことをたくさん教えてくれ、体験させてくれた。

ちょっと思い出に浸りながら、彼とのお別れをしようと思う。

 

「こういうものなんだけど、うちのお店で働いてみない?一度遊びにくるだけでも良いよ」

ちょっと怪しい声のかけられかたをしたのは、東京西麻布にある高級スーパー。

その頃の海は、西麻布でインチキバーテンダーをしていた。

なぜインチキかというと、バーテンダーとして何も知識もないままアルバイトとして雇ってもらったのだが、数ヶ月後にお店の店長が急に辞めることになってしまった。

急遽海がお店の店長として、見かけだけは一丁前のバーテンダーとして振舞っていたからだ。

お酒の知識もカクテルの知識もなく、毎日お客さんに教わりながらお酒を作っていた。

店長としてお店の買い出しとアルバイトの大学生に作るまかないの材料を仕入れるために、近所の高級スーパーに毎日通っていた。

西麻布はバーや飲食店が多い。

海が買い物に行っていた時間帯は、同業者が多かったようだ。

声をかけてきたNさんもその一人だった。

Nさんは白いカッターシャツに黒のリーバイス626、コンバースという出で立ちの中年の男の人だった。

そして柑橘系のとても良い香りのコロンもつけていた。

声をかけられてから気になるようになり、スーパーで会うと挨拶はするようになったが、それだけだった。

そして半年後何があったのかは忘れたが、仕事の後に無性に飲みたいと思う日が続き、今度は思い切って海から声をかけてみた。

「すみません。仕事の後に飲みに行きたいのですが、女の子が一人で飲みに行っても大丈夫なお店ですか?」

「もちろん。うちのお店は一人で飲みに来る女の子はたくさんいるよ。いつでもいいから遊びにおいでよ」

この時の海はまだ23歳だった。

 

Nさんは海が働いていたすぐ近くのバーの店長をしていた。

今はもうないが、知るひとぞ知る伝説のバーだった。

オーナーはNさんの兄のような存在のデザイナーの人だった。

Nさんはとても食に対してのセンスが高く、人に頼まれて何軒かのお店の立ち上げをしたり、傾いているお店の再建をしたりしていた。

そんな時、兄のような存在の人から一緒にお店をやってほしいと言われてそのバーの店長として働いていた。

そのバーはまさに大人の隠れ家だった。

裏道の非常口をお店の入り口としていて、よっぽどではないと見つけられないようなひっそりとした場所。

階段を降りて一歩お店の中に入ると、日本とは思えないような異空間。

そこにたくさんの芸能人やモデル、ミュージシャン、TVのプロデューサーや雑誌の編集者など業界の人たちの憩いの場所になっていた。

海が行っていた頃はまだオープンして間もないころだったので、一般の人たちは少なくほとんどが業界の人だった。

普段はTVでしかみないような超有名な芸能人たちが、普通にお酒を飲んでいた。

そんなお店でドキドキしながら、毎晩のようにお酒を飲んでいた。

Nさんが海のためにウイスキーのボトルを入れてくれ、お金を払わず毎晩通っていた。

そしてNさんといろいろな話をした。

Nさんの夢はスペインのイビサ島でお店を出すことだと言っていた。

彼のやりたいと思うお店の構想に、海の夢も重ねていた。

「こんなに素敵な構想があるのに、なんで自分でお店を持たないの?Nさんと一緒にお店をやりたいよ」

飲食店をつくるセンスと才能があるNさんと、若い海のパワーが重なって化学反応が起きた。

二人とも働いていたお店を辞め、スペインのイビサ島に行く準備をした。

この時海は23歳、Nさんは46歳だった。

Nさんに、なんで西麻布のスーパーで海に声をかけたのか聞いてみた。

「最初の印象は面白い子だな、だったよ。西麻布の高級スーパーでお店の人たちと仲良く、毎日値切りながら楽しそうに買い物をしていて、こんな子と一緒に働きたいと思ったんだ」

 

Nさんとは親子ほど年が離れていたが、彼は海にとって憧れのような存在だった。

Nさんは海が愛読していた本の中から飛び出してきたような人だった。

この頃好きだったのは、森瑤子の小説やエッセイ。

彼女の本の中によく出てきたのは、新宿の喫茶店

その喫茶店には売れないアーティストや才能あるオシャレな大人たちが集まり、森瑤子も常連らしかった。

後からその喫茶店は「風月堂」ということをNさんから教えてもらった。

「よく通っていたよ、懐かしい。あの頃の風月堂はお金はないが才能ある人たちが集まる、とても刺激的な喫茶店だったよ」

Nさんはまさに海が憧れていた時代を生きていた人だった。

Nさんと一緒にいることで、自分も同じ時代に生きているような錯覚があった。

彼の友人たちは皆、森瑤子の本の中に出てくるような人たちだった。

そんなNさんとビジネス・プライベートのパートナーとなった。

一般常識からかけ離れた考えをもつNさんと一緒にいることで、実家からは一時縁を切られた。

からしたら、23歳の娘が46歳の中年男と一緒にお店をやる、しかもスペインに行くなんて言いだしたら、騙されているとしか思わなかっただろう。

 

Nさんはとても不思議な人だった。

男からも女からもモテる人だった。

無口で活字中毒者。

いつもリーバイス626の後ろポケットの中には単行本が入っていた。

海にたくさんの本を紹介し、買ってくれた。

たくさんのアート展覧会に連れて行ってくれた。

「アートなんて全くわからないよ。絵もオブジェも何が良いのかなんてわからない」

そんなことをいう海にいつも

「分からなくて良いんだよ。自分の好き嫌いだけで見てれば、そのうちに目が肥えてくるよ。でも本物にたくさん触れないとね」

そして海が自分の好き嫌いで展覧会の作品を評価するようになると、

「とても良い感覚をもっているよ。海のその感覚はとても良いよ」

と褒めてくれた。

そして映画もたくさん観た。

若い頃映画を作ったこと、映画に出演したこともあるNさんはヨーロッパや香港のマイナーな映画を好んだ。

食べること、飲むことも教わった。

高級店、とても安い下町の飲み屋、値段じゃなく、本物の味を教えてくれた。

「自分らしく生きる」

これを教えてくれたのもNさんだ。

自分を磨き、周りに流されず自分を思う存分に出す。

海はとても頭の形がいいからといって、坊主にさせられたこともある。

身に着けるものも、値段やブランドじゃなく、似合うものをみつけて買ってくれた。

やりたいということは、すべてやらせてくれた。

考えてみると、Nさんと一緒にいた11年間、否定的なことを言われたことがない。

「海は最高だよ。もっと磨いたら最高の女になるよ」

褒められると伸びるタイプの海は、褒められながらNさんに育てられていたような気がする。

Nさんとの出会いがあったから、今の海がある。