大切な人との別れ 『プライベート編』

これまでの人生の中でとても大きな影響を与えてくれた人が亡くなってちょうど一年。

ブログに彼との思い出を残して、お別れをしようと思っている。

 

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海がNさんと出会ったのは23歳の時だった。

この時Nさんは46歳。

親子ほども年が離れていたが、すぐに意気投合した。

海は西麻布の小さなアパートを借りて一人暮らしをしていたが、Nさんが可愛がっていた弟分の双子の兄が大阪から出てくるので、その部屋にしばらく住まわせてほしいと頼まれた。

海はNさんの家に住むことになった。

「家賃を払わなくていいのでラッキー」という軽い気持ちでNさんの家に転がり込んだ。

ある日、若い女の子が赤ちゃんを連れてNさんの家に来た。

「誰?」

「娘」

「え〜〜〜娘がいるの?聞いてないよ。孫まで・・・」

無口なNさんは自分から何も話さない人だった。

海が何も聞かないから、話さなかっただけだと言った。

他にも2人の男の子のお父さんだった。

1つしか年齢がかわらないその娘と孫と4人の生活がしばらく続いた。

 

Nさんの元奥さんは絵描きで、北海道で絵を描いたり教えたりしていた。

何度かお会いしたが、かなりぶっ飛んでいる人だった。

Nさんもだいぶぶっ飛んだ人だが、元奥さんはかなりの人だ。

子供を作ってはいけない二人が、若い時に勢いで結婚し3人も子供を作ってしまった。

そして「親がなくても子は育つ」と言って放りっぱなしで、3人の子供たちはおばあちゃんに頼りながらたくましく育ったようだ。

今でも連絡をとっているのは、最後まで海のことを認めてくれなかった長男だ。

「当たり前だよ。海ちゃんと会った時、俺高校生だよ。自分と5つ6つしか年が変わらない女を連れている親父。その女と仲良くできるわけないじゃん」

仲良くなってから、こんなことを言っていた。

 

Nさんとの喧嘩はほとんど家族問題だったような気がする。

北海道でお母さんと暮らしていた次男も高校を卒業と同時に東京にやってきた。

家庭的ではないNさんは、子供達の相談なんて全く聞かない。

そしてその子供達の問題が海にも降りかかってくる。

最後には元奥さんまで東京に引っ越してきた。

Nさんの家族の問題でプライベートではいつも喧嘩をしていた。

一般常識というものを持ち合わせていなかったNさんと一緒にいることで、海は実家からほぼ勘当されていた。

それも喧嘩の原因になっていた。

何度も家出をし、何度も別れようと思ったが、お店を辞めたくなかった。

別れる=お店を辞める

この決断が出来なかった。

 

Nさんとの別れを決断したのは、Nさんの娘を看取ってからだった。

32歳の時、子宮頸がんで余命3ヶ月の診断をされた娘。

また一緒に暮らすことにした。

Nさんの孫は小学6年生になっていた。

お店をやりながら、家でモルヒネの点滴を打っている娘の看病、そして孫の日常生活、そして長男まで病気になってしまって、5人での生活。

結局3人の面倒をみることになってしまった。

3ヶ月の余命宣告をされていたが、結局10ヶ月生きてくれた。

最後まで入院を拒んだ娘を看病するのは限界にきていた。

訪問で毎日来てくれていた看護師さんが、訪問医療の担当の先生に「このままだと海ちゃんが倒れるから、先生なんとか説得してください」と言ってくれて、娘をホスピス病院に入院させたその日に亡くなった。

たぶん、お互いに限界だったのだろう。

精一杯やれることはやったという気持ちがあったので、亡くなった時はホッとした。

熱と痛みで毎日苦しみに苦しんでいたので、「やっと楽にしてあげられた」と思ったのだ。

一方、Nさんは最後までお酒に逃げていた。

担当の先生が来る日も、飲みに出て帰ってこなかった。

唯一のお店の休みの日曜日は、朝起きるとすぐに飲みに行っていた。

朝からやっている飲み屋さん、24時間やっているチェーン店の居酒屋さんなどで飲んでいたようだ。

最後の方は、しらふでいることはほぼなかった。

 

33歳〜34歳の間、アル中のパートナー、2人の病人、そして小学6年生のお母さん代わり。学校のことや生活を全てみることになり、海の精神に限界がきた。

娘が亡くなって1ヶ月ほど経った時、全く寝られなくなり、睡眠導入剤で眠りについても現実的な夢を見てしまうので、起きているのか?寝ているのか?わからない状態が続いた。

「先生、精神内科を紹介してください」

「誰が行くの?」

「私です」

「精神内科に行ったら、精神病患者にされちゃうから、とにかく僕のところに来なさい」

娘の訪問診療をしてくれた担当の先生は本当に良い先生だった。

彼は自分のクリニックを持っていて、訪問診療だけじゃなく、週に一度だけ、外来患者を受け付けていた。

毎週1時間、海のために予約を入れてくれた。

先生のところに通い始めて5週目にやっと、気持ちが固まった。

「先生、お店も辞めて彼とも別れます」

先生は毎回ただただ海の話を聞いてくれた。

そして言うことは毎回同じだった。

「今の海さんの精神状態を元に戻すためには、とにかく環境を変えることです。このままでは本当に精神が崩壊してしまいます。なんとか環境を変えることはできませんか?」

そして最終的に海が出した決断が、別れだった。

最後までお店を諦める決断ができなかったので、Nさんに聞いてみた。

「プライベートのパートナーはもう無理です。ビジネスパートナーとして、お店を続けさせてもらえませんか?」

Nさんの答えはノーだった。

一緒に暮らしていけないような奴とは、一緒にお店はできないとのことだった。

考えてみたら8月でお店を始めて丸10年だ。

10年と思ったら、すんなり「もういいや」と思えた。

「8月いっぱい働かせてください。そしてお店を辞め、家を出ます」

 

2007年8月31日までお店をやった。

そして9月1日に姉に車で迎えに来てもらって、荷物をまとめ家を出た。

その時Nさんは飲みに行っていた。

 

Nさんと一緒に過ごした11年間は本当に濃い時間だった。

30歳の誕生日の時、実家に帰り(この時はもう許してもらっていた)

「あ〜まだ30年しか生きていないんだ。あと何十年生きるんだろう」と母に言った。

「そんな風に感じるなんて、毎日が充実している証拠だよ。海は幸せな人生を歩んでいるんだね」

母が言ってくれた言葉だった。

ここには書ききれないたくさんの楽しい経験もさせてもらった。

いろいろなことがあったが、Nさんと出会わなかったら、こんなに楽しい人生にならなかったと思う。

「お金は残せないけど、海には何か残してあげたいと思っている。何を残してあげられるだろう?」

23歳も離れていたので、自分が先に逝ったあとのことも心配してくれていた。

「良い人脈だけ残してくれればいいよ。海が困った時に助けてくれるNさんの友達だけで十分」

なんだかその通りになっている。

今だにNさんの友人たちと繋がっている。

お店の素敵な常連さんたちとも繋がっている。

そしてそれ以上にたくさんの経験、体験を通して残してくれたものは大きい。

 

去年、Nさんの訃報を聞いて長男に連絡をした。

「Nさんと出会ってとても幸せだったし、お店をやっていた時間はずっと私の宝物です。いろいろなことがあったけど、Nさんには感謝でいっぱいです」

「海ちゃんと出会えてあの輝かしいお店の時代がお父さんの象徴だったから・・・。お姉ちゃん、孫のことも全て海ちゃんには感謝しかないです。またいつか笑顔で再会できる日を楽しみにしています」

長男からこんな嬉しい言葉が返ってきた。

 

今頃はNさんは仲が良かった先に逝っている素敵な友達たちと、楽しく美味しいお酒を飲んでいるかな?

Nさん、本当にありがとうございました。