日本にいる母が緊急入院した。
3年前に起こした大きな事故で首の骨折、頸椎損傷で障害が残る体になってしまった。
9ヶ月に及ぶ入院生活が終わり、家に帰ってきて19日後に転倒して大腿骨骨折、そして再入院中に脳梗塞まで起こし半身不随。
最初の事故で右半身が麻痺、脳梗塞で左半身に麻痺が残っている。
それでも「歩きたい」とリハビリ病院で必死のリハビリをして、何とか歩けるまでになった。
「車椅子生活を最終目標にしてください」
これは最初の事故のとき手術をしてくれた執刀医から言われた言葉だ。
良い意味で、動かなくなった体を受け入れられなかった母は、必死でリハビリをして奇跡を起こした。
2021年迎え盆の前日、姉は掃除をして綺麗にしたお墓を母に見せるために散歩に連れて行った。
歩いて行ける距離にあるお墓だが、家の中をほんの少しだけ歩けるだけの母は車椅子に乗せてもらっての散歩だった。
このお墓には父と、祖母(母の母)が眠っている。
母は「よろしくお願いしますね」と動きが悪くなっている自分の体を父と祖母に頼んだ。
最近どんどん滑舌が悪くなり、歩くこともままならなくなってきて、姉のストレスも相当なものだった。
そしてお墓参りの次の日の朝、姉はいつものように早朝からトイレ介助で起こされた。
この日の朝は、ほぼ何を言っているのか分からないほどだったらしい。
トイレには手引きで歩ける状態だったが、いつもと少しだけ様子が違っていた。
「ちょっと水を飲んだら?」
母は水が飲み込めなかった。
姉の素早い決断で救急車を呼んで病院に連れて行った。
もう78歳の母なので、体に残った麻痺で歩けないのか、加齢のために歩けなくなっているのか、それとも脳梗塞の再発なのか判断が難しい。
でも姉の判断がとても早かったおかげで、大ごとになる前に入院ができて良かった。
そして脳内出血で42歳の若さで亡くなった父が、母の再発を早く教えてくれたような気がしている。
海は2020年3月にアメリカに戻ってきてから一度も日本に帰っていない。
身体機能だけじゃなく、臓器の機能も弱くなっている母の元に帰る決断ができない。
特に呼吸筋が弱くなっていて、呼吸器官に不安があるからだ。
海外からの帰国者でコロナに感染する人は、PCR検査で陰性でも数日後に発病する人もいる。
海は空港が一番危険な場所ではないかと思っている。
多くの人が狭い場所に長時間滞在し、食事をしたり、排泄したりするからだ。
万が一、自分は無症状でもウィルスを運んで実家に帰ったら・・・と考えてしまう。
ちょっとしたことで体調を崩してしまう体になってしまった母に、これ以上辛い思いをさせたくない。
1年半日本に帰れない今、思うことがある。
「母と姉、2人のための時間なのではないか?」
海は19歳で実家を出たが、母とは趣味がとても似ていることもあり、実家に帰ると母と山歩きによく行っていた。
そんなとき、お互いに本音の話ができていたように思う。
母も海に伝えたいことをきちんと伝えてくれていた。
「これはお姉ちゃんには言っちゃダメだよ」
そういう話もあった。
最後に母と海外旅行に行ったとき、
「海のことはもう何も心配をしていないよ。せめて日本にいてほしいと思っていたけど、海外でも何処にでも行ってもいいよ。きっと海外志向が強かったお父さんが応援してくれいるんだと思うよ」
こんなことを言ってくれた。
この時に本当の意味での親離れ、子離れがお互いにできた気がしている。
姉は高校を卒業した後4年間は隣町で一人暮らしをしたが、海が専門学校を卒業して東京に出ることをきっかけに実家に帰ってきた。
それからずっと母と2人で暮らしている。
お互いに性格が似過ぎていることに気がつくことがなく、ただ気が合わないと思っていた二人は喧嘩ばかりしていた。
海が実家に帰ると母は姉の愚痴を、姉は母の愚痴を言っていた。
そんな二人が母の怪我+入院をきっかけに、とても性格が似ていることに気づいた。
二人とも人一倍人に気を使い、超がつくほどの心配性。
だからお互いに心配するあまり、喧嘩に発展していたのだ。
「姉を置いて死ねない」
最初の手術が終わって麻酔が切れた時に母が最初に発した言葉だ。
母は姉が心配で心配でしょうがないのだ。
50を過ぎても姉は家事はまったくやらず、光熱費の支払いなども一切気にせず暮らしていた。
「こういう風に育てたからしょうがない」
母はいつもこう言って姉の面倒を見ていた。
そして今は立場が逆になっている。
すべての家事を姉がこなし、光熱費の支払いはもちろん、地域の会合や近所付き合い、すべて姉がやっている。
最初に起こした大きな事故で母は命を落としてもおかしくなかった。
でも母は姉のことが心配で死ねなかったのだ。
そして今、徐々に体が動かなくなり、姉に日常生活の介助をしてもらうことによって、今まで伝えられなかったことを伝えているように見える。
あの時に母が亡くなっていたら、姉は耐えられなかったと思う。
母も姉もびっくりするくらい寂しがり屋だった。
だから喧嘩が絶えなくても一緒にいたのだ。
姉は家事をほとんどしていなかったので、母がいなくなっていたら自炊などせず、外食や買ってきたコンビニ食などですぐに病気になっていたかもしれない。
姉は毎日母が健康を考えて作ってくれていた食事に文句を言っていたが、自分が作らなくてはならなくなった今は、母に対しての文句が感謝に変わった。
今までは何もしなくても冬には冬の、夏には夏用の布団が用意されいた。
母が怪我をした当初は海が日本に帰って、母と姉のサポートをしていた。
毎日病院に行き母のリハビリのお手伝い。
家では姉のために家事を手伝った。
でも今は姉が一人で母の介護と家事を仕事をしながらやっている。
3歳で父親を亡くた母は、親戚の家に預けられ親に甘えることなく育った。
だからか?今、姉にとても甘えている。
母という鉄の鎧を着て、決して子供達の前で泣き言や涙を見せない強い母だったが、怪我をして体が自由に動かなくなってから、弱虫で泣き虫の本当の母が出てきた。
そして姉にとても甘えている。
今まで母に甘えてきた姉は、対応できずに不平不満、そしてストレスを溜め込んでいる。
でも再・再入院のとき「家に帰りたい」と泣きながら訴えた母の言葉を重く受け止めている。
もう在宅介護は無理かもしれないと言われても、休職をしても在宅で母の面倒をみるつもりだと言っている。
なんだか30年以上、喧嘩ばかりだった二人の時間を埋め合わせしているようだ。
二人の絆は深くて強い。
こんな愛の深い家族に恵まれて、ただただ幸せに思っている。