日本人「間」の大切さ

日本にはいろいろな「間」がある。

居間、茶の間、床の間、手間、間合い、食間、空間、間が開く・・・・・

数えたらキリがないほど、間を使った言葉がある。

日本人の特徴として良い意味でも悪い意味でも使われる「曖昧さ」はっきりとさせないことが、「間」のような気がする。

「間」というのは「時間」ともいえる

難しいことはわからないが、量子力学では「時間は存在しない」といわれている。でも日本語では最初から「時間は曖昧である」ことを言っているような気がする。

わかりやすい「食間」という言葉は、はっきりとした時間はなく、食事と食事の間のことである。

食後1時間でも5時間でも、次の食事までの曖昧な時間が食間である。

 

海外に長く住んでいると「自己主張が強くなる」「はっきりと物事を決める、言う」傾向が出てくる。それはあまり良い意味では言われない。

海が住んでいるアメリカでは、特に都会に住んでいる日本人は曖昧さを持ち合わせている人は少ないように感じる。

曖昧さ→良くない→劣等感 足の引っ張り合いが多い都会の中で生き抜いていくためには、曖昧さをなくし物事をハッキリとさせる流れになってしまうのかもしれない。

海自身も最近まで日本人の曖昧さをあまり良い意味に捉えていなかった。でもこの日本人の特徴は、大調和を産む素晴らしいことではないかと最近は思うようになってきた。

曖昧さ→とっても良い→大調和

 

何かの記事で「多国籍の人達の会話や作業の中で日本人が一人入るとスムーズに物事が進む」というのを読んだことがある。

海が働いている農場にはもう一人日本人がいる。

海は露地栽培、Mさんは水耕栽培の部署でアメリカ人、メキシコ人の人たちの間で隙間の仕事を埋めることをよくやっている。

海が入ったばかりの頃は、アメリカ人vsメキシコ人という図が出来上がっていた。

運良く、英語もスペイン語も同じ下手さ加減で話せるので、アメリカ人の仲間に入ることも、メキシコ人の仲間に入ることもせずに、真ん中(間)のポジションをとった。

海が間に入ることにより少しコミュニケーションが増え、喧嘩が減り、仕事がスムーズに流れるようになったと自負している。

そして日本人の「曖昧さ」は実は「間を取る」という特技ではないかと思うようになってきた。

職場では当たり前だが、立場によって仕事のやり方が変わる。

マネージャーとしてはAのやり方でやってほしいが、現場ではCのやり方の方が効率が良いという時が多々ある。

そういう時日本人は、両方が納得がいくように新しいBのやり方を考える。

100%どちらかのやり方が正しいなんてあり得ないのだから、両方の良いところをとってBを考えるのが日本人は得意だ。

でもこのBを考えることをアメリカ人やメキシコ人には理解されない。

彼らは自分のやり方を通すか、相手のやり方でやるかどちらかだ。

そもそも間をとるということを考えないし、やろうともしない。

だからいつも喧嘩やいざこざが絶えないのだ。調和なんて生まれない。

調和=ハーモニーは心地良い。

調和が取れているほうが仕事もスムーズに行くし、人間関係も穏やかだ。

この「間→調和」の大切さに気がついているのは、日本人だけかもしれないと思うようになってきた。

日本人は空気を読んだり、相手の気持ちを察したり、見えないものを感じる力が他の国の人よりも優れているように感じる。

日本人は言ってはいけないことがある時「お茶を濁す」という誤魔化すテクニックもある。

そういう曖昧なことができない他の国の人は、本当の事を言うか、嘘を言うかの選択肢になってしまう。

日本人のこの曖昧さという特徴は実は、誇らしく素晴らしいことで、アメリカに住んでいても無くしてはならないと思うようになってきた。

曖昧さは中途半端とは違う。

これからは曖昧さをもっと意識して、大切にして、アメリカで生きていこうと思うアラフィフの海である。